・01 「シュウが来ない……?」 大人気TPSゲーム・ダイヤモンドシューターズ全国予選、少年の部。 その控え室で、結城啓明は目を見開いて立ち尽くしていた。 胸の内で何かが切れる音がして、彼は机を拳で叩いた。 怒りとも焦りともつかない感情が喉までせり上がる。 ちくしょう─低く唸るように吐き捨てると、仲間の声を振り切って控え室を飛び出した。 ニュースの音が、遠くで揺れていた。 『結城啓明くん(11)を轢き逃げした経営者の男(24)には執行猶予付きの─』 青年・祭後終は、額を流れる汗と喉を焼くような吐き気に現実へ引き戻された。 スマートフォンのアラームが鳴るまで、あと十分。 どうやら、ちょうどいい時間に目が覚めたらしい。 彼は小さく息をつき、まずトイレへ向かう。 起きて最初にすることは、いつだって昼に食べたものをすべて戻すことだった。 ・02 あれから一時間後。 シュウはスーパーの飲料コーナーで、野良デジモン捜索のための軽食と飲み物を選んでいた。 ふと、久しく口にしていないスポーツドリンクが目にとまる。 なんとなく、喉がそれを欲しがっていた。 手を伸ばしたその瞬間、隣から伸びてきた別の手と触れ合った。 「あっ」 「むっ」 筋肉質で背の高い男だった。 頬には一筋の傷があり、その風貌にどこかただならぬ気配を感じたシュウは、あっさりとドリンクを譲った。 「どうぞ、どうぞ」 「…いや、俺は二リットルの方にするから」 男は無造作に大きめのボトルを取ると、軽く会釈してその場を後にした。 買い物を終えたシュウが店を出ると、道端で大きな荷物を抱えて立ち尽くす老婆の姿が目に入った。 「大丈夫ですか、おばあさん」 「大丈夫ですか、おばあさん」 声が重なった。 隣には、先程の厳つい男が立っていた。 「あっ」 「むっ」 気まずい間が流れる。 結局シュウは荷物を、男は老婆の身体を支えるてそ家まで送り届けた。 何を語るでもなく、二人はまた別の方向へ歩いていった。 夕暮れの公園。 木を見上げている幼い兄妹に気づいたシュウは、声をかけた。 「どうしたの?」 「ぼーるがね、きにね、ひっかかっちゃったんだんだ」 「そっか。じゃあ…俺に任せろ」 「えっ…もう…」 言葉を終える前に、シュウは木に手をかける。 「あっ」 「むっ」 枝の上には、またしてもあの男がいた。 彼はボールを片手に持っていた。 男が放ったボールをシュウが受け取り、子供たちへと返す。 一瞬だけ目が合い、どちらからともなく軽くうなずくと二人はまた別の道を選んで歩き去った。 ・02 ─数時間後。塾帰りの子供たちの姿もまばらになってきた頃。 シュウは相棒のユキアグモンとともに周囲に野良デジモンがいないことを確認し、ようやく一息ついた。 すっかり冷めた餡まんを頬張るユキアグモンがピクっと素早く頭を左に振るとほぼ同時に、商店街の方からけたたましい警報が鳴り響いた。 「もごご!シュウ、デジモンだ!もご!」 「そろそろ深夜だってのに騒がしいヤツもいたモンだ」 一人と一匹が角を曲がると銀行の大きなガラスが大きく砕けており、その前には体格の良いフードの男が顔を隠していた。 「おいそこのヤツ!何やってんだ!」 シュウは角に隠れ、ユキアグモンはフードの男に声をかけながら爪で指差す。 「デジモン…それと物陰にテイマーか。お前らも銀行強盗の仲間だな」 フードの男が左袖を捲るとその左手首にはデジヴァイスであろう物体が装着されていた。 「─ベタモン!」男の掛け声に緑色の爬虫類型デジモンがのっしのっしと銀行内から現れ、ユキアグモンを睨んだ。 ベタモンは素早く回転すると鋭い空気の刃を纏った得意技・フィンカッターを放つ。 ユキアグモンは間一髪で攻撃を避け、すぐさま爪を突き出して反撃する。 だがベタモンはそれをあっさりとかわし、素早い連続頭突きで応戦してきた。 シュウは吹き飛ばさてしまったユキアグモンをキャッチすると敵の強さがこちら以上であることを悟る。 「ユキアグモン、やれるか」 「へっ。やるんだろ」 「ま、そうなんだけどな」 ユキアグモンは気合いを入れて立ち上がると再びベタモンに向かって攻撃を仕掛ける。 格闘戦が始まり、シュウは眉間を叩き作戦を練ろうとする。 こんなにも堂々と個人がデジモン犯罪に手を染めるとは…という動揺が思考を鈍らせ、名案が浮かばない 「とりあえずはコレだ!」 シュウのアップリンクに反応したユキアグモンは自販機へ爪を突き立てると、強い衝撃とデジタル存在の干渉によってバグった自販機から大量の缶が吹き出す。 背後から勢いよく迫っていたベタモンは止まることができず、そのまま缶で滑ると引っくり返ってしまう。 そのままユキアグモンはバス停に飛びかかると大きく揺らして傾け、それをベタモンの顔面にぶつけてみせた。 「ぐぞぉ〜滅茶苦茶やりやがって…!」 ベタモンはフラフラとしながら怒りのままにユキアグモンへ再度フィンカッターを放つ。 バック転で攻撃を回避したユキアグモンは、素早くベタモンの体勢が崩れたタイミングを見計らって跳び蹴りを仕掛けた。 「今だベタモン!」 「しまった─おびき寄せられた!」 【電撃ビリリン】 シュウのデジヴァイス01から必殺技発動の電子音が鳴ると、フードの男の声に目を光らせたベタモンは全身から強力な雷撃を放った。 「んぎょばばばーーっ!」 ユキアグモンは黒焦げになって倒れ、フードの男はベタモンと共にその場を去ろうとする。 ところが、銀行の中から複数の黒ずくめの男たちが現れるとフードの男を取り囲んだ。 「貴様〜!先程はよくも…今度は負けんぞ!」 男たちがポケットからダークネスローダーを取り出すと一斉に叫ぶ。 「あいつら…!」 シュウは目の前にいる男たちが自分と度々対立するメキシコからの不法入国者─デジモン系犯罪組織のマフィアであることを認識していた。 彼らがフードの男を睨んでいる事にシュウは違和感を感じた。 「「「トゲモン、デジクロス!」」」 三つの黒い稲妻が夜空を裂き、一つに集束する。 そこに現れたのは、異形の巨大トゲモン─。 「これぞ三倍トゲモン…いや、メガトゲモンだ!!」 「メガトゲモン、その男のベタモンを"削除(デリート)"しろ!」 「まずは貴様から消してやる…進化なぞ、させるかァ!」 男たちは折り畳みナイフを開くと、フードの男に切りかかった。 だが初撃は軽々といなされ、肘打ちでナイフを弾き飛ばされる。 無防備になった背中へさらに一撃。 続いて襲いかかる二人も寸前で回避され、両の手刀で首元を打たれ膝をついた。 倒れた一人には、細かく素早い連続蹴り。 踏み込んで放たれた旋風脚が顔面を捉え、意識を刈り取る。 残る一人は後掃腿(こうそたい)の勢いに胴ごと浮かされると、そのまま車止めボラードに背中を叩きつけられる。 埃を払うフードの男の下で、男は呻き声を上げていた。 フードの男は、メガトゲモンの攻撃をかわし続けるベタモンの進化を試みる。 だがその隙を狙い、最初にいなされた男が拳銃を抜いていた。 「死ね…が、ごっ!」 引き金を引く直前、シュウが投げたジュース缶が顔面に直撃する。 弾道が逸れた。 間髪入れずにユキアグモンが接近し、男を抱え上げるとそのまま銀行の窓ガラスへ叩きつけた。 「よっ、危なかったな。アイツらの敵なら先にそう言えって〜」 銃弾で破れたフードの下から顔を覗かせた男にシュウは駆け寄り、軽く背中をぺしぺしと叩いた。 「あっ」 「むっ」 ふいに落ちたフードの下から現れたのは、今日だけで何度もすれ違ったあの筋肉質な男だった。 どこか間の抜けた驚きが、互いの目に浮かぶ。 「変なゴーグルなんてつけてるモンだから気づけなかった。悪いな」 「案外、そんなものさ。それより…」 短く言葉を交わすと、シュウはすぐにデジヴァイス01を操作して進化指示を入力する。 そして、躊躇うことなくユキアグモンへと光を放った。 フードの男もまた手慣れた動きでデジヴァイスにフラッシュメモリのような小さなデバイスを差し込み、弾けた光をベタモンへ向ける。 「ベタモン!」「ユキアグモン!」 声が重なった。 空気が震え、二つのデジヴァイスから甲高い駆動音が轟く。 ギューンと唸る音とともに、白く輝く卵殻のような光が二匹を丸ごと包み込んだ。 一拍の静寂。 そして、爆ぜるように光がはじけ飛ぶ。 「タスクモン!」「ストライクドラモン!」 進化を遂げた二匹のデジモンが、並び立つ。 蒼く燃え立つような気迫と鋭く尖った存在感が、戦場の空気を一変させた。 ストライクドラモンは白煙を裂いて鋼の拳をぐっと握りしめニヤリと笑う。 「っしゃあ、腕が鳴るゼ!誰が相手だろうとブッ飛ばしてやる!」 タスクモンは大きな角を備えた堂々たる体躯から低い声を響かせる。 「どっちが先にアイツを倒せるか、勝負でもするか?」 だが、狡猾なメガトゲモンは進化の隙を見逃さなかった。 その全身から、既にミサイルのようにトゲを放出していた。 【チクチクバンバン】 けたたましい音と共に、無数の鉄針が解き放たれた。 光を反射して銀色に煌めきながら空中を奔り、二匹と二人めがけて雨のように降り注ぐ。 ストライクドラモンが吠え、爆発的に加速した。 踏み出した一歩は地面を割り、彼は弾丸のごとく飛び出すと迫る針を次々に叩き落としていく。 速度も力も、そのまま武器と化していた。 だがすべてを防ぎきるには至らず、背後から迫る針が彼を穿たんと迫る。 瞬間、地を割るような衝撃音が鳴り響いた。 「パンツァーナックル!」 タスクモンが、巨腕を地に叩きつけた。 轟音とともに吹き上がる衝撃波。 砂埃と一緒に、残った針を空へと巻き上げ、無力化していく。 大地をも従えるその一撃はただの防御ではなく…タスクモン自身が、一つの台風の目となったようだった。 「おう!やるじゃねぇか!」 ストライクドラモンが楽しそうに声を飛ばす。 「へっ、コレがオレの力さ!」 タスクモンは豪快に笑うと、躯に見合わぬ敏捷さで突進を開始した。 タスクモンの巨体が銀行の壁を一息に突き破り、砕けたコンクリートと鉄骨が瓦礫となって宙を舞った。 轟音とともにメガトゲモンへタックルを叩き込んだ。 数メートルを超えるその体躯は伊達ではなく、地を抉りながら踏み止まる。 巨体(タスクモン)と巨体(メガトゲモン)の激突は鈍く、そして腹に響く轟音を周囲に広げる。 押し切れない─タスクモンは僅かに眉をひそめ、力を込め直す。 (ただのデカブツじゃねぇな) そう悟らせるだけの手応えが、確かにそこにあった。 「ストライクファーーングッ!!」 その時、吠えるような叫びと共にストライクドラモンが飛び出した。 鋭く突き出された拳が空気を裂き、メガトゲモン目掛けて一直線に突進する。 その拳には、鋼をも貫く破壊の力が宿っていた。 「よし行け、ストライクドラモン!二匹なら楽勝だ!」 「そうだな…タスクモン、気張れ!」 シュウの叫びにフードの男も続いて吠えた。 「うおおおおおーーーっ!!」 「後は…ブッ飛ばして終わりだぁぁぁっ!!」 二匹のデジモンが雄叫びを上げ、同時にメガトゲモンへと殺到する。 蒼竜の鋼拳と重戦車の堅角─その二重の猛撃は、地面にまで衝撃が届いていた。 瞬間、空気が弾けた。 二匹のパワーに圧し切られ、メガトゲモンの身体が一気に突き破られる。 緑色の巨体が崩れ、夜の町の中に沈んでいった。 ・03 目を回して地に伏す三匹のトゲモンを前に、シュウはメキシコマフィアの戦闘員たちの手を手際よく結束バンドで縛り上げた。 「おまえ…こんなモン、いつでも持ち歩いてるのか」 呆れたように言うベタモンを、シュウはへっへっへと悪びれず笑って見返す。 「まあな」 手早く縛りを確認しながら、シュウは肩をすくめた。 「─それにしても、お前はなんでこんなことしてるんだ」 フードの男が静かに尋ねると、シュウはまるで大した事でもないように言葉を返す。 「やりたいからやってるだけさ」 その声に、迷いはなかった。 ユキアグモンをちらりと見る。 無邪気な顔で見上げてくるパートナーに、シュウは小さく目を細めた。 「デジモンって、いいヤツ多いからな。悪事に利用されてたら…許せないだろ?」 ぽつりと落としたその言葉に、自分でも照れくさくなった。 頭をかくようにして、無理に話題を切り替える。 「そ、そんなことよりさ。えーっと…お前は、どうなんだ」 ふいに話を振られた男は、わずかに笑った。 「俺は松戸城士。ジョージでいい」 ジョージと名乗ったその男は、先ほどまでの鋭い気配をわずかに和らげていた。 だが、頬に走る一文字の古傷が彼の歩んできた戦いの激しさを物語っている。 「─俺は異世界から来たんだ」 そう言って、左手を持ち上げる。 そこに装着されたデジヴァイスが街灯の光を受け、夜の闇にも負けぬ鋭い輝きを放った。 「あ〜、そうなの」 「随分と軽いな」 「異世界とか、デジタルワールドとか……もう慣れちゃったからなぁ」 肩をすくめるシュウの様子を、ジョージは苦笑まじりに見やった。 それもそうか、とひとつ息を吐いて自らの世界のことを語り始める。 悪しき支配を目論むゴッドドラモンの出現。 相棒・ベタモンとの邂逅。 そして、立ち上がった者たちと結成したレジスタンス─ドレイクスパーダ。 「仲間たちはバカで、熱くて…でも真っ直ぐだった」 少しだけ目を細めたジョージは、懐かしむように宙を見上げた。 まるで、遠い空の向こうにその姿が見えているかのようだった。 「俺は、何度ももうダメだって思ったよ」 ぽつりと落ちた言葉には、幾重にも積み重なった戦いの記憶が滲んでいた。 恐怖も、痛みも、喪失も─全部飲み込んで今の彼が立っている。 「でもベタモンとあいつらがいたから…戦えた」 ジョージは胸元をぎゅっと握るように、指先に力を込めた。 声は静かだったが、その奥には揺るぎない誇りがあった。 「この世界は穏やかだ…でも、できることなら帰りたい」 どこか遠くを見つめながらジョージはほんの少し笑った。 けれど、その笑みにはどこか影が差していた。 「シュウと違って、結構苦労してんな〜」 「はは。これが苦労人の顔かよ」 ユキアグモンにそう言われ、短く笑い合った。 その瞬間、町の静けさを破るようにパトカーのサイレンがけたたましく響いた。 ─喋りすぎたな。 シュウは頭を掻くとジョージの正面に立ち、拳を突き出す。 「今日はありがとな。ここは面倒なことになる。早く逃げてくれ」 「いや、だが…」 「こういうのは慣れてる。今度は、俺が助ける番だぜ」 ジョージはほんの少しの逡巡のあと、シュウの拳に答えた。 彼はベタモンとユキアグモンを連れて建物の影へと姿を消し、それとのすれ違いでパトカーが丁寧に停車した。 ・04 入れ替わるようにパトカーが静かに滑り込むと、ほとんど音も立てずに停車する シュウはあまりに丁寧なその動きがかえって場違いに思え、誰が運転しているのかすぐにわかった。 パトカーのドアが開き、一人の女性警官が降りてきた。 後ろで結んだ髪に、きちんとした制服姿。 辺りの光景に一瞬だけ息を呑むが、制服の襟元を直すとそれ以上の動揺を見せることはなく手帳を開いた。 「道路の陥没、窓ガラスが…五枚。自動販売機とバス停の器物損壊。銀行への不法侵入に、暴行三件…」 その几帳面な声に、のらりとした声が割って入ってきた。 軽く手を振りながら、シュウが歩み寄ってくる。 「やっほー。すみれお姉さん」 ゆっくりと近づいてきたシュウを見て、女性─鳥藤すみれはやれやれと眉を寄せる。 「またあなたなの、祭後くん」 「今回も正当防衛だよ。銀行には入ってったのはこっち」 足元の男を靴先で軽くつつく。マフィア風のその男は、ぐったりと意識を失っていた。 「確かにその人たちが最近問題になっているメキシコ系の不法入国者集団だっていうのは理解できるわ」 すみれは倒れた男たちを見下ろしながら、言葉を選ぶように続けた。 「でもね。この現場を見た人が、それを信じると思う?」 その視線はシュウに向き、わずかに険しさを帯びる。 「まさか、さっきまでいた"共犯者"がなんて言わないでしょうね?」 指先で手帳を閉じながら、彼女は肩を落とした。 「うーーーん。すみれお姉さん、かな」 シュウが眠たげな顔で自嘲気味にそう言う。 すみれは手帳をぱたんと閉じ、肩を落とした。 軽いため息が漏れた。始末書はまた確定だ…だが、それはもういい。 すみれは手帳を胸元に収め、しばしシュウを見つめる。 その視線は、かつての同級生を懐かしむようでいて、どこか悲しげでもあった。 「あなた、昔はそんなふうじゃなかった」 ぽつりと、そう言った。 「俺は…俺は、ずっと俺のままだよ」 けれどその言葉には張りがなかった。 否定の形を取りながら、肯定を隠しきれていない。 「そうやって昔と同じように振る舞ってるけど…私には全然そんなふうに見えない」 「…睨まないでほしいな」 すみれの見抜くような視線から、思わずシュウは目を背けた。 「小5の夏休み明け、祭後くんはいきなり転校してたわよね」 「言う暇もなかったんだ。気づいたら全部、終わってた」 シュウは小さく笑ったが、それは苦笑に近かった。 「"いなくなった"って思った。子供にとっては、それくらい大きなことだったのよ」 すみれは何か言いたげに口を開きかけたが、やがてそっと唇を閉じる。 「あなた、誰かのために動いてるようで…実際は生き急いでるようにしか見えないの」 「そんなことはないって信じて貰うにはどうすればいいんだろうね」 何も答えないすみれにシュウはひとつ深く息をついて、ポケットの中でそっと拳を握った。 右腕の古傷が、またも不意に疼き出す。 あの日を忘れるな─そう言われているように。 「…結城くんと藤原くんのこと。まだ、引きずってるのね」 その名前が出た瞬間、シュウの目からすっと光が抜け落ちた。 「それはもう終わったことだろ」 声だけが、妙に静かだった。 すみれは、昔からわかりやすい女性だった。 嬉しいのか。怒っているのか。悲しんでいるのか…今はただ、見ていられない─そう思っているんだろう。 「終わったことなら、どうしてそんな目をするのよ」 「見間違いだろ?暗いからな」 いつもの調子で、軽く言ってみせた。 けれどその言葉すら、どこか擦り切れていた。 すみれは目を細めた。 彼の"ごまかし方"は、子供の頃から同じだった。 「嘘─あなたはずっと嘘が下手。悪いのは、車の運転もまともにできないマヌケな男でしょ?」 「そのマヌケの前にタカアキが飛び出したのは、俺のせいだ。誰かのせいにしたって、その心の傷は俺のもんだ」 静かに首を振って、シュウはすみれの言葉を否定する。 「久々に現れたあなたが、“正当防衛”を盾にマフィアやテロリストと戦ってるなんて、思いもしなかった」 すみれの声には、怒りよりも戸惑いと痛みが滲んでいた。 警察という立場では、彼の行動を認めるわけにはいかない。 けれど…それ以上にかつて将来を語り合った友人から、信じてもらえていないことが悲しかった。 「悪人は許せない。犯人を刑務所に入れられなかった国も、信じてない…そういうことなんでしょう?」 その“国”には、私も含まれてる。 彼の心に、自分の居場所はもうないと─そう感じた。 すみれは目を伏せた。 「いいねぇ。じゃあ、それで行こうか」 シュウはニッと笑って、両手の人差し指を回転させながら彼女を指す。 「真面目に答えなさい、祭後くん」 「あー、それ。いつもタカアキと一緒に言われてた。お姉さんは昔から変わらないなぁ」 「その“お姉さん”呼び、いつまで引きずるつもり?」 「…どうしようかね」 シュウは目を細めると頭を掻こうと右手を上げようとした。 ・05 「すっ…すみれさん!シュウくんは悪い人じゃないんよ…!」 声がした方を、二人が同時に振り返る。 細い道路の向こう側、街灯の下に制服姿の少女が立っていた。 息を切らし、背中の鞄がずれている。 学校帰りに急いで来たのが一目でわかった。 「─幸奈ちゃん…どうしてここに……?」 シュウの声には、明らかな動揺が滲んでいた。 こんな場所で、こんなやりとりを聞かれるとは思っていなかった。 自分の事情に彼女を巻き込みたくなかった。 その気持ちが、声から滲み出ていた。 「学校の用事が長引いて…帰る途中で大きな音がしたから…」 幸奈は説明しながら、申し訳なさそうに視線を落とす。 すみれの瞳がかすかに揺れる。 「…厳城さん」 その呼び方に、彼女らがすでに知り合いであることが伝わってくる。 シュウは思わず振り返る。 正面には知り合いの警察官、背後には気絶したマフィアの戦闘員たち─そして、その真ん中で立ち尽くす自分。 その中でも彼女は自分を信じているというのか。 「盗み聞きするつもりじゃ、なかったんよ…」 幸奈は俯き、離れた二人を見つめる。 シュウとすみれの間に流れている濃く湿った空気から、何も聞かずとも彼らの関係が簡単な事ではないと察していた。 「彼は…」 「で、でも…」 幸奈は環境学習センターのことを思い返しながら、震える声で言葉を繋ぐ。 「シュウくんは…大丈夫だから…!」 その真っ直ぐな言葉が、胸に突き刺さった。 その純粋さが、いちばん苦しい。 ─大丈夫だよとか、簡単に言わないでくれ。 喉までこみ上げたその言葉を、飲み込む。 弱さなんて、見せられない。 ここでそれを吐いたら、自分が自分でなくなるような気がしたから。 「はは…君は、相変わらず人を信用し過ぎるね…」 信頼を裏切ったあの夜が、胸の奥で軋む。 シュウは震えを押さえながら、それだけを絞り出した。 ほんの一瞬、過去の声が脳裏をかすめる。 幸奈の明るさが、なぜかタカアキに重なって見えた。 思わず顔を伏せたシュウに、15年前の夏の光景がフラッシュバックした。 ・06 シュウの足元に弾丸が打ち込まれた。 弾けたコンクリートの欠片が石を掠め、彼は現実へ引き戻される。 「悪い。嫌なこと、思い出してた…いや、あの日から全部が嫌なことだったな。はは」 「祭後くん…」 すみれは、過呼吸のように肩を震わせるシュウをじっと見つめた。 汗を拭うふりで涙を隠しながら、彼は何事もないふうに笑おうとしていた。 「見えないところから足元だけを正確に撃つ…こんな芸当ができるのは、源乃ちゃんだけだな?」 「そうよ。動かない方がいいわ」 すみれは静かに懐から手錠を取り出すが、その手の動きとは裏腹に僅かな躊躇いが見える。 「ごめんな。俺、もう帰るわ」 シュウが頭を掻くと、カンッと乾いた音が響いた。 瞬間─氷の壁が突き上がるように立ち上がり、シュウの姿を飲み込む。 「…シュウくん!私は…信じてるから…!」 幸奈が一歩前に駆け出した。 だが、その白く硬い壁は無言で行く手を遮る。 彼女は拳を握りしめ、震える声で壁の向こうへと投げかけた。 「…」 その後ろで、すみれは何故かその場を動けずに立ち尽くしていた。 自分は警察官で、かつて"選ばれし子供"だったのに。 乾いた笑み、どこか遠くを見ているような視線─その姿を前に、ただ手を伸ばすことすらできなかった。 目の前の幸奈は、迷いなくシュウを信じた。 かつての自分なら、迷いなくあの隣に立てたはずなのに。 変わったのは、あの人だけじゃない─きっと、自分も大人になってしまったのかもしれない。 「私は…もっと、あなたに信じてほしい」 体が感じる冷たさは手錠の金属から来るものか、目の前の氷壁から来るものか…もう、すみれにはわからなかった。 それとも─本当は心の中から、じわじわと冷えているのかもしれない。 おわり その少し前、真上の高層ビル。 ジョージとベタモン、ユキアグモンの一人と二匹が、息を潜めていた。 「シュウが右手で頭を掻いたゼ!合図だ!」 【ホワイトヘイル】 ビルの縁からユキアグモンが放った氷柱は、地面に吸い込まれるようにして着弾した。 瞬間、氷の壁が地面から膨れあがる。 「水が多い場所だと氷が広がりやすい…だってさ!」 そうベタモンに言われたジョージは、持てるだけの炭酸ジュースの缶をシュウの前に次々と投げ込んだ。 カンッ…と乾いた音を立てて落ちた缶は衝撃で次々に破裂し、噴き出した炭酸をまき散らす。 その水が、まるで導線のように氷の壁の範囲をさらに押し広げていく。 生まれた氷壁はみるみる成長し、ついには地上二階の高さに達した。 すみれだけでなく、遠くの狙撃手の視界すら完全に塞がれていた。 「作戦成功だゼ!シュウを助けてくれてありがとだゼ、お前ら!」 ユキアグモンが思わず拳を握りしめる。 「何が"俺が助ける番"だよ…別れ際にこっそりベタモンに作戦アップリンクしやがって…」 ジョージはそう言いながらデジヴァイスを弄り、シュウから送られていた通信を何度か見返す。 「そう言いながら、即決でここに来るのがジョージなんだよなぁ」 ニヤニヤと笑うベタモンに、ジョージは無言でそのヒレを左右にブルブルと振りまくる。 「あばばばばば…しかしシュウってのは、あそこで何を話してたんだろうな」 「シュウは口が回るからなぁ。うーん…あんまんは、こし餡派か、つぶ餡派か─だな!」 ユキアグモンは真剣な顔で拳を握りしめ、目を輝かせていた。 .