運命を信じるか。  あるいはそうなるべくしてなったという現実を信じるか。  科学者であるならばそれは引き寄せるものだと考える。不確定な未来ではなく蓄積した資料の裏付けによってなされなければならないと、理屈に裏打ちされた事実こそが導かれた運命そのものなのだと。  しかしそれが青臭い事であることも反発しつつ理解していた、例えばだがなんの面識もないままに類似した力を持つ男女が出会う確率はいかほどだろうか。  デジタルワールドという世界がある、もう一つの世界とでもいうべき異世界は一般に知られていない、限られた人間だけが汁秘匿、それを知るのは千秋は両親が関係者であり目標とする科学者だからだ。そんな両親はデジタルワールドの調査中に消息を絶ってしまったが、バイタリティ溢れる2人の事だから元気にさまよっていることだろうと心配はしていない。  だから今千秋は1人で暮らしている。少し前までは祖父とともに暮らしていたが、鬼籍に入っている。両親は一応生きていると考えられるため厳密には天涯孤独ではないのだが、実質的には近い環境にある。  それに対して不満はなかった、気質とでもいうべきか、1人でいることにあまり孤独を感じない。もちろん人間である以上、あるいは完全にはみ出したわけではない感性を持つ以上ふとした瞬間に寂しさを感じることもある。  そんなほんのわずかな隙間を埋めるように彼女はやってきた。 「これが前に話してくださった……」 「うん、スピリットの力の一部を間借りできるようにするデバイス、まだ試作段階だけどさ」  千秋が手渡した小型の機械を興味深そうに眺めていた、甘い香りがする、研究対象としての興味外のはずだったのに今は知りたいと思うそれは香水の匂いだと分かる。淡く香るそれは花、なら今の自分は何だろう、誘われる虫なのかもしれない。ちょうどいい、千秋の借りる力はデジモンのチカラ、スピリット、その身をデジタルワールドの住人に変質させる。ブリッツモンというデジモンがそのチカラ、甲虫、雷をまとうカブトムシ。本来は樹液を求めるのかもしれないが、花の香りに誘われるのも悪くはない。  ちら、と視線を向ける。出会いはいつだったか、まだ寒い時期だったはずだ、その時は体のラインを隠す厚手のコートとマフラーを着こんでいた、その下には女があった。今は暑く、コートなど来ていればすぐにでも倒れてしまう、男も女も薄着になる、視線の先の女は白いワンピース、清廉さを感じるがその布を押し上げる胸の膨らみが、尻の膨らみが、千秋の中にある衝動をくすぐってくる。  人間は本能の生き物であると何かで聞いたことがある、理性とは本能の奴隷であると。昔はそれを鼻で笑い飛ばした、人というものはそういった動物的部分を超越してこそ、と、今はその言葉を否定しきるだけの自信がない、せいぜい心の奥底に残ったわずかばかりの矜持がちっぽけな抵抗感を示すであろう程度と言える。  見とれてしまう、形のいい眉、瞳、通った鼻筋、笑みを浮かべる唇。心を奪われてしまったその代償か、あらゆるものが魅力的に見えた。 「何か……?」  じっと見ていたのに気づかれてしまったらしい、そんな声が来る。誤魔化すように咳払い、そして普段ならば研究に費やす脳のリソースを全力で言い訳に使った。 「えっと…ここに来るまで暑かったと思うし、何か飲み物でもいるかなって」  少々苦しい言い訳かもしれないが、少女は微笑み、 「心遣いありがとうございますね」  そう言ってくる。ただただそう思っているのか、千秋の言葉に乗ったのかは分からないがひとまずは、と胸をなでおろす。 「ううん、正直英理香さんに出すには心もとないけど」  名を呼びながら微笑みかける、心が跳ねた、ただ名前を呼ぶという行為にどこか喜びを感じていた。 「千秋君が出してくれるなら、どんなものでも嬉しいですよ」  一喜一憂という言葉が正しい、ただちょっとした肯定が世界のすべてを鮮やかに見せる。足取りが軽い、冷蔵庫で作り置きした麦茶がそれこそ本当に名家とされる家柄の口に合うかは分からないが、ちょっとした庶民の味として楽しんでもらおう、少し待つ旨を告げ、台所にグラスを取りに向かった。 〇  飲み物を取りに向かう千秋の背を見届けてから英理香は一息、 千秋の部屋は油臭い、料理用のそれではなく工業用油による重く肺を焼きそうな臭いであふれている、もっと精密な作業をする部屋ならばまた違うらしいが英理香にはあまり違いを感じられなかった、しかし1つわかるのはここには千秋という人間がいるという事実。  もう何度も訪れた部屋なのに、たったそれだけのことで新鮮味を感じる。千秋に包まれていると錯覚してしまいそうになる、本当に包まれてしまえばそれしか考えられなくなるから濃度で言えば数パーセントくらいか、それでもここには生活の残滓がある、そこに自分の存在を埋め込むのは至福だった、同じ空間で同じ時間を過ごしているという事実が甘い痺れをもたらす。  英理香の本音で言えばもう家を抜けてここに住んでしましたいと思う。それが無理であるという事実も重々承知している。それでもなお思わざるを得ない。  兎角名家というものは縛るものが多すぎる。もちろんそれに付随する権利は多いが、それと同じようにまた義務も存在する。それをかつての柊英理香はなんの疑いもなく受け入れていた、それが当然であると教育を受けていたというのもある。持つ者達の義務、ノブレスオブリージュというという名の。  枷、などと感じるようになったのはいつからだったか、さほど昔ではない。ほんの少し前、冒険が、デジタルワールドという世界が価値観を変質させたのは理解している。だが、それ以上に、 「ん……」  自由の甘美さを知ってしまった。何よりも危険な毒の味は英理香を犯していく。社会で見れば愚かな行為この上ない、自ら危険のうちに飛び込んでいくなど。だが、己の意思を封じ込めぬままにただ発露させるということが、自らの責任で自らを絶たせるということは、何よりも解放されると知ってしまったならばもう戻ることは許されない。  そして、自覚したがゆえ千秋に惹かれた。千秋の作る発明はどこかかけている、それは資金難からくるものであれ、未熟からくるものであれ、何かしらの欠点が存在していた。己の常識からは考えられないことだった、もしも柊の家であればまず慣性系の時点で課金なく成功したものがあり、そこからさらに成功を積み上げてより良いものとするのが当然であったから。  見てるだけで最初は不安になった、失敗ばかりとまでは言わないがどこか不安になるような発明品を積み重ねる姿に、だがどれだけの道のりであろうともくじける姿を見せなかった。トライアンドエラーの果て、成功の見えぬ中でも泥臭くあがき続ける有様に、人としての強さを見てしまった。そこに社会であるとかなんであるとかはない、ただ千秋の強さだけが千秋の軸として存在していた、自分とは違う、名家という土台の上で臨まれた成功だけを持っていた自分とはまったく。  そう思ったのは、初めての敗北を知りえた時だった、  記憶には定かではないが、全能感をへし折られる事実があったことだけは間違いない、1人では決して立ち直れなかったであろう事象。そもそも英理香が負ける、ということなど生きていて存在しなかった、上に立つことを選ばされた人間に敗北という汚点は許されるものではない。そうなればもはや勝利者ではない、負けから這い上がるというのは歴史を重ねた家柄のものに許されるものではない。ただ、勝利という栄光を積み上げ続けるのが英理香に課せられたことであった。それが、親や社会の庇護の中でのみの常識であり、外では何の意味合いを持たなかった。  受け入れるには時間を要した、いくら単なる民衆とは違う教育を受けていたとしても、内実は10代の少女でしかない、最初は務めとばかりに気丈にふるまっていたこともある、現実がついてきたのはどれからだったか、1人ではかなわない敵にさんざんに負かされた時たと呑み込めたのは。  それはきっと千秋と出会った時だ、デジタルワールドに迷い込んだ時に歓喜の叫びをあげていたのを覚えている。事情を気えば両親がこちらに迷い込みもう何年も連絡を取れずにいるのだという、しかしその目に宿るのは両親への情ではない。  見たことのない世界に心を躍らせて、自らを遮るものなど何もないかのようにただただ望む道を行こうという意思だけが、瞳の中に光として表れていた。  美しいとさえ思うほどの爛々とした光を見た時思わず息をのむ、惹かれるという言葉の意味を初めて知った気がした、もっとその目に宿る光の意味を意義を知りたいと、英理香は千秋に寄りそうことにその時決めた。  旅路は波乱を極めた、千秋がそもそも好奇心の塊のような男でもあったからだ、しかしそれを不快に思ったことはない。多くの経験をした、戦い、勝利、敗北、出会い、別れ、リアルワールドにいた時には得られなかったであろう数々の思い出たち。  何よりも、己の手でつかみ取るという行為、それを英理香は持たなかった、ある種の贅沢までも。  多くの、本当に多くのものを手に入れた、1人で手に入れたものもあれば、千秋とともに見出したものもある。良いものも悪いものも。  ならば英理香が千秋に抱えるようになった気持ちもきっと手に入れてしまったものだ。  英理香には秘密がある。  名家ともなれば自由恋愛の時代であってもひそかに続く見合いや紹介で婚姻関係になることも多い。家という価値観を残し続けるための手段と言えた。当然だが英理香もいつかは親の勧めに従い血を残す相手を選んでいたはずだ。  だが、もはやそれは意味をなさない。  英理香には秘密がある。  もう純潔ではない。もちろんほかに異性の相手がいる中で、男性のもとに向かうほど恥知らずではない。だから相手は千秋しかいない。  初めては究極体と呼ばれるデジモンの進化の中で最も上位の位階に位置するデジモンで、死闘と呼ぶのにふさわしい戦いの果てに退けることが出来たが、ダメージもまた見合うほどに大きい。スピリットエボリューションでまとったデジモンの身体でもなお防ぎきれない損傷は生身の肉体へと返ってきた。  手当のために衣服を脱いだが、そこに色気などかけらもなかった、互いに傷ついた部分を治療しあう行為に欲求を感じることなどなかった。  だから欲求が来てしまったのはそのあとになる。蓄積した疲れをとるために寝ようとして寄り添った時だ、力が入らず体勢を崩し千秋へ体を預ける形となった。  最初に感じたのはまず肉、それも英理香が持つ柔らかなものではない、男性特有なのか硬く引き締まり、細身であっても筋肉を感じさせる肉体が心を弾ませた。  千秋は美形だ、少しの女装で道行く10人に9人は見抜けず女性として声をかけてしまいそうなほどに整った顔立ちでありながら、どうしようもなく男を感じた時に、生命の危険の後の女の肉は持て余すほどの熱を帯びた、性的な欲求、時代を作り上げなければならにという根源的な本能。  それは千秋も同じだったらしい、英理香が持つ柔らかな肉体が本能を刺激していた。  最初はただをこすり合わせるような緩慢な動きは次第に激しくなる、性的な意味を帯びていく、腕や指を絡めるだけだったはずが、股間同士をくっつけ、触れ、弄り、刺激しあう。それでもまだ我慢はできた、発明家の卵と両家のお嬢様だ、知識はあっても具体的に行動へ移す方法を知りえない。  だから我慢の堰を切ったのは唇同士が触れた瞬間だった、性的な刺激でも超えられなかった一線をキスという行為が一切合切を薙ぎ払う。  そこからはただ夢中になった、人とも獣とも言えない貪りあい。一晩中続いた。  それが英理香にとっての、そして千秋にとっての初めて。最高ではないかもしれないが、記憶に残る一夜。あるいは魂に残る。翌日からは一切の歯止めが利かなくなっていたのだから。  その気になればどちらともなく触れ、性欲をあおり、衣服を脱ぎ棄てて1つに交わる。危険がないと分かれば見境などなかった、若く青い情動が消えることはない、日の終わりは裸のまま抱き合って寝ていることも少なくはなかった。  聞く人間によっては爛れているとも言われそうなデジタルワールドの日々を2人はすごし、そんな日々にも終わりが来る。  リアルワールドへの帰還がその合図だった。  名残惜しさとともに別れ、そしてきっと2度と会うことはないのだろうと、本来は住む世界が違うから。  などという軟弱な思考回路は英理香はすでに消し飛ばしていた……!パートナーでありスピリットであるボルグモンの力を使いこなせるようになるにつれて自分にとって都合のいい無理を押し通して、都合が悪ければ道理など消し飛ばすという覇者がごとき思考回路を手に入れていたのである!  そもそも経験を積むにつれて最適化された戦術は小技でけん制して敵を釘づけて大技で何もさせずに消し飛ばすというもの。貴種が暴力の果ての子孫であるというのなら存分に先祖がえりを起こしていたと言ってもいい。  そんな英理香という人間に、だまって別れるなどという諦観のごとき答え(笑)などかけらも存在しなかった。かくしてありえたはずの別れの未来は消し飛んだのである。まさにチカラispower。  そんな英理香の最近の不満はセックスレスだ。 ―前・終―