今日は八月十五日。あと半月で高校二年生の夏休みが終わる。  オレ――剣崎 狼真(けんざき ろうま)は、ガタガタと揺れるバスの中で夏休みが終わりに近付いている事を実感し、思わずため息を吐いてしまった。 「どうした。ため息なんか吐いて」  隣の席に座る幼馴染の虎獣人――関谷 虎市(せきや とらいち)は、腕組みしながらそう尋ねてきた。  虎市は筋肉質でガタイが良いから、腕組みすると貫禄がある。オレと同じ十七歳のはずなのにまるでオッサンだ。柔道部のエースであるこいつの前でそれを口にしたら締め技を食らいかねないので心の内に秘めておくしかねえけど。 「折角の夏休みなのに部活と移動で午前中が吹っ飛ぶんだぜ? ため息も吐きたくなるだろ」  オレが所属する陸上部も、虎市が所属する柔道部も、毎朝部活動がある。夏休みなのにだ。  それに加えて、もう一つ問題がある。オレと虎市が村育ちであるという事だ。  オレたちが暮らす『雄滝村(おたきむら)」は山の中にあるド田舎だ。そんなド田舎の村に高校なんてあるはずもなく、隣町まで一時間かけてバスで通学しなければならない。つまり、移動だけでも往復で二時間吹き飛ぶのだ。  超絶早起きして五時半発のバスで学校に向かい、七時から部活動して、今オレたちが乗っている十一時発のバスで村に戻る。つまり、オレたちが自由に活動できるのは十二時過ぎから。休みを満喫できるわけねえだろこんなんで。 「しかし、村に戻ってもできる事は限られるだろう」 「そうなんだよなぁ……」  繰り返すが、オレたちが暮らす村はド田舎。都会のように映画館やゲームセンターやらの娯楽があるはずもねえ。遊び場は川くらいしか無くて、泳ぐか釣りをするかしかない。 「あーあ。都会に行きてえなあ。虎市もそう思わねえか?」 「……そうだな。一度は、外の世界を見てみたい気持ちはある」 「だよな! じゃあさ、高校を卒業したら一緒に都会の大学に行こうぜ! んで、講義の時以外は遊びまくる!」 「お前が都会に行ったら遊びすぎてすぐに堕落しそうだな」 「オレが堕落しそうになったら虎市が止めてくれるだろ?」 「善処はする」 「よし、決まりだ! 絶対、一緒に都会に行くぞ! 約束だ!」 「良いだろう。お前が勉強を頑張るというのならな」 「お、おう。頑張るぜ……」  虎市は文武両道を体現したようなヤツだ。運動ができて頭も良い。対して、オレは走るのが少し得意なだけの狼獣人。勉強はそんなに得意じゃない。まあ、平均より少し上くらいの成績だから、頑張ればそれなりに良い大学に行ける……はず。きっと、恐らく、多分。  §  きっちり一時間バスに揺られたオレたちは、正午ぴったりに雄滝村に戻ってきた。 「よっ、部活お疲れさん!」 「おかえり。待ってたよ」  バスを降りた瞬間、腹が出た狼獣人と眼鏡をかけたぽっちゃり体型の虎獣人のオッサンたちに声を掛けられた。  腹が出た狼獣人の方はオレの親父である剣崎 太一(けんざき たいち)。そして、ぽっちゃりした虎獣人の方は虎市の親父――関谷 樹(せきや いつき)おじさんだ。 「樹おじさんと一緒にオレたちをバス停で待ち構えていたのか? 一体何を企んでやがる、親父」 「ワシは何も企んでないぞぉ! ただ、お前たちが大人になる前に楽しくバーベキューでもしようと思っただけだ! な、樹くん」 「太一さんの言う通りだからそんなに警戒しなくていいよ、狼真くん」     樹おじさんは人懐っこそうな笑顔をオレに向けてきた。思わず、オレは虎市に視線を向ける。  ううん。やっぱり似てないよなあこの親子。樹おじさんはよく笑うけど、虎市は滅多に笑わなくていつもむすっとしている印象がある。  まあ、オレと親父も似てねえけどな。オレは親父ほど能天気な性格じゃねえ。それに、体格も全然違う。オレは細身の筋肉質だけど、親父は僅かな筋肉の上に多量の脂肪が乗ったデブだからな。 「明日は儀式の日だからな。沢山食って、英気を養わんとな! ガハハ!」  自分の手で腹をぽんと鳴らしながら、親父は豪快に笑った。 「儀式か……」  虎市がぽつりと呟く。珍しく、その声には不安の色が滲み出ているような気がした。  ――雄滝村には、ある決まりがある。その決まりとは、毎年八月の半ばにある村祭りの日に、十七歳になる男は『神水の儀』と呼ばれる儀式に参加しなければならないというものだ。  大昔は数え年で十五歳になる頃にこの儀式を行っており、成人式と似たような扱いだったらしい。さっき親父が大人になる前云々言っていたのは、これが理由だ。  明日から、この村の中でオレたちは大人として扱われるらしい。 「……変だよな。当日になるまで何をするか分かんねえ儀式なんてよ」  神水の儀で何をやるのかを知っているのは、大人のみ。明日儀式に参加する予定のオレたちにも、儀式の詳細は知らされていない。当日まで、儀式の内容を伝えないのも決まりになっているようだ。 「そんな不安そうな顔をするな! 明日の儀式は、虎市くんのサポートをワシがして……」 「狼真くんのサポートを僕がするってのが、村の話し合いで決定したからさ。良く知ってる僕らに手解きされるなら安心でしょ?」  良く知ってる仲だから確かに安心はする。けど、儀式の内容が分からない状態でサポートするって言われてもピンとこないな。明日、オレは樹おじさんにサポートされながら何をする羽目になるのやら。 「まあ、明日の事は明日考えりゃいい! 今はとにかくみんなで肉を食うぞ!」  親父は大雑把だなと思いつつも、肉を食う事に異論は無い。さっきからオレの腹の虫が早く肉を食わせろと鳴いているからな。  §  バス停から歩いて五分程の場所に、石がごろごろと転がっている河原がある。親父たちに案内されてそこに移動すると、炭を入れるタイプのバーベキューコンロが用意されているのが確認できた。  コンロに近づくと熱気を感じたので、炭にはすでに火が付いているようだ。  親父たちは炭に火を付けてからバス停に移動したようだが、こういう不用心な行為が許されるのも田舎ならではって感じだよな。ま、すぐに肉を焼ける状況なのはありがたいが。 「さあ、じゃんじゃん肉を焼くぞぉ!」 「おにぎりも沢山あるからね。たんとお食べ」  親父はトングを持って肉を焼き始め、樹おじさんは大量のおにぎりが入った皿を俺たちに差し出してきた。 「……いただきます」  米が大好きな虎市は手を合わせた後、さっそくおにぎりを一口でほおぼった。  オレは肉と一緒におにぎりを食べたい派だから、肉が焼けるまで少し我慢しよう。 「狼真、調味料はどうする? 海塩、岩塩、湖塩の中から好きなのを選ぶといいぞ!」 「全部塩じゃねぇかよ! オレを塩漬けにするつもりか!?」 「塩漬けになったら狼真の新たな魅力が引き出されるかもしれないぞ?」 「塩漬けにして魅力が引き出されるのは梅くらいだろ! そんなに何かを塩漬けにしたいんなら梅干しでも作ってろ!」 「……いや、塩漬けにすると魅力が引き出される食材は梅以外にも沢山ある。例えば、鮭だな。鮭の塩漬けは奥が深い。塩加減や作り方で呼び名が変わるからな。少量の塩で作る新巻鮭と、大量の塩で作る山漬け鮭……どちらも異なった魅力がある。だが、米によく合うのは共通した魅力といえよう」 「お前は何の話をしているんだ、虎市」 「狼真が急に梅干しの話をするから悪いんだぞ」 「オレのせい!?」  理不尽だ! もういい、肉を食いまくって鬱憤を晴らす!!  丁度良い具合に焼けてそうな牛肉を箸で掴んで紙皿に乗せた後、岩塩を少し付けて口の中に放り投げる。……あっつ! でも美味い!  肉の旨味が口の中に残っている内におにぎりもひと齧り。うん、美味い! 「あ、ちなみに焼肉のタレもあるからね」 「あるんかい!」  それなら初めから言って欲しかった! 塩で食べるのも嫌いじゃないが、オレは肉をタレにつけて食う方が好きなのである。なので、紙皿に焼肉のタレを大量投入。 「ほれ、虎市も肉を食えよ」  オレは焼けた肉を箸で掴んで虎市の紙皿に入れた。取り分けてやらねえとひたすらおにぎりだけを食いそうだからな。 「感謝する」  そう言った虎市はいつもと変わらぬ仏頂面だったが、耳が小さくぴくぴくと動いている。長年一緒に居るから知っているが、これは嬉しい出来事があった時に表れるこいつの癖だ。 「ははっ! 二人は相変わらず仲良しだな!」 「生まれた時からずっと一緒だもんね。僕たちのように」  親父と樹おじさんは顔を見合わせて、笑った。  オレと虎市のように、親父と樹おじさんも同い年だ。だから生まれてから三十七年間、ずっと一緒だったらしい。  オレと虎市も、親父たちのように長く一緒に居られるのかな。……居られるといいな。 「……狼真。丁度良い機会だし、二人にさっきの話をした方が良いんじゃないか」 「あ、ああ。そうだな」  虎市が言う通りだ。バスの中で約束した事を、親父たちにも話そう。 「どうしたんだ? 急に改まって」 「親父。オレたち、高校を卒業したら都会に行きたいと思ってるんだ」  オレの言葉を聞いた親父と樹おじさんは、動きを止めた。  二人とも急に黙り込んだから、蝉の鳴き声と炭がパチパチと弾ける音がやけに鮮明に聞こえて変な感じだ。緊張する。 「……そっか。やっぱり、狼真くんと虎市は僕たちと似ているね」  沈黙を破ったのは、樹おじさんだった。 「ワシらも、高校生になったばかりの頃はいつか都会に行ってやると思ってたもんなあ」 「そうだったのか? でも親父たちは……」 「うん。結局、都会に行かずにずっと村に居る選択をしたよ」 「……父さんたちは、何故村に残ったんだ?」  虎市の問いに、樹おじさんは優しく答える。 「きっと、明日になれば分かるよ」 「それはどういう……」 「おっと! 肉が焦げるぞぉ! ほら、話はそこまで! じゃんじゃん食べろ!」  オレの言葉を親父が遮った。  腑に落ちないが、今はこれ以上語っても無駄。そんな気がしたので、オレは食事に集中する事にした。  § 「なあ。明日になれば分かるって、どういう意味なんだろうな」  食事を終えた後、オレと虎市は肩を並べてぼんやりと川を眺めていた。親父が、片付けはワシと樹くんがするから狼真と虎市くんは川で泳いで遊んでいいと言ったからだ。だが、さっきの樹おじさんの言葉がどうにも気になって川に入る気分になれない。 「父さんたちが村に残る選択をした理由が、神水の儀にあるのかもしれない。しかし、その儀式の内容が分からないのだから、今考えても答えは出なさそうだな」 「……高校に通うようになって思ったけどよ、この村ってかなり変なんじゃねえか?」  村には小中一貫校がある。そのため、高校生になって通学のため隣町に頻繁に行くようになるまでオレはあまり村の外に出た事が無かった。  オレたちが高校に通うようになってから一年ちょっと。それは、村の外の常識を知るには十分な時間だった。 「この村は男しか立ち入れないし、住まえない。十七歳になる男は神水の儀を受け、二十歳になる男は丸一年かけてまた別の儀式を受けなければならない。……それらの風習は、村の外の者には信じ難いらしいな」  雄滝村は女人禁制の村で、村人はみんな母親の顔すら知らない。それを高校のクラスメイトに言うとありえねえって反応をされるんだよな。 「明日の儀式はともかく、二十歳になったら丸一年かけて謎の儀式を受けないといけないなんてダルすぎだろ。その前に絶対この村からおさらばしてやる!」 「……そのためにも、頑張って勉強をするんだな」  そう言いながら、虎市は上着を脱ぎ始めた。 「おい、マジで泳ぐのかよ」 「暑いから涼みたい。お前は泳がないのか?」 「いや、水着がねえし」 「裸で泳げばいいだろう。昔のように」  小学生の時は真っ裸で虎市と川遊びをしていたが、中学生になってからは川に来ても釣りをするようになって泳がなくなった。 「……もしや、また溺れるのが怖いのか?」 「こっ、怖くねえよ!」  あれは忘れもしない。小学六年生の夏休みの最終日に、オレと虎市はこの川で遊んでいた。その時、調子に乗ったオレは虎市が止めるのも聞かずに川の深いところまで泳いで行ったのだ。結果、派手に溺れて死にかけてしまった。まあ、偶然にも林業に携わる親父がこの川の近くで仕事をしていて、すぐに助けに来てくれたおかげで命拾いしたのだが。 「安心しろ。もしお前が溺れても俺が助ける」 「……へっ、あの時大泣きしてた奴がカッコつけた台詞言うんじゃねえよ」 「ぐっ……」  小さい頃から、虎市は仏頂面である事が多かった。けれど、オレが溺れて死にかけた時はめちゃくちゃ泣いていたんだよな。心配をかけて申し訳ないと思うのと同時に、心配してくれて嬉しかった。 「なあ、虎市。オレさ……」 「何だ?」 「……いや、何でもねえ」  虎市は首を傾げつつ、ズボンを脱いだ。オレは慌てて顔を背ける。  オレが中学生になってから虎市と川で泳がなくなった理由は、これだ。こいつの裸を直視できねえ。だってオレはこいつが好きだから。裸なんて直視したら、絶対に興奮して勃起してしまう。  ――思い返せば、溺れて死にかけたあの日がキッカケだった。あの日、オレのために泣いてくれた虎市を見てからこいつを恋愛対象として意識するようになってしまったと思う。それを自覚したばかりの時は一時的な気の迷いだと思ったが、数年経った今も恋心は消えてくれない。それどころか、共に過ごす時間が増えれば増えるほど、想いは募っていく。 「どうした、顔が赤いぞ」 「バッ、バカ! オレの目の前に立つな!」  虎市が回り込んでオレの顔を覗き込んできたものだから、オレは直視してしまった。よく鍛えられた逞しい身体と、ぶらぶらと揺れる太いイチモツを。  虎市のイチモツは皮を被っていたが、先端部分は少し剥けてピンクの亀頭が見えていた。 「具合でも悪いのか?」  思わず前屈みになったオレを見て、虎市は訝しげな表情を浮かべた。 「何でもねえから、さっさと川に入れ!」 「だが……」 「いいから入れって!」 「あ、ああ。分かった」  ふう。ちょっとキツい物言いをしてしまったが、そのおかげで勃起してるのを見られる前に虎市が川に入ってくれて助かった。  今のうちに、気を鎮めよう。こういう時は素数を数えるといいんだよな。2、3、5、7……よし、落ち着いてきた。 「なーに突っ立ってるんだ! お前も泳げ狼真!」  背後から声がしたので、慌てて振り向く。そこに立っていたのは、メタボ体型の狼獣人――オレの親父だった。 「おっ、親父!? 何で素っ裸なんだよ!」 「片付けに飽きた! ワシも泳ぎたい!」 「身体を揺するな! 見苦しい!」  親父が駄々をこねる子供のように身体を動かしたもんだから、でかい腹に加えて短い竿と丸々とした金玉が揺れる姿が目に焼き付いてしまった。虎市と比べると、なんとまあだらしない身体だろうか。思わずため息を吐いてしまう。 「片付けはひと段落したし、みんなで涼もう。ね?」  いつしか、樹おじさんも川縁に立っていた。当然のように全裸で。  樹おじさんもぽっちゃりしてるけど、親父ほどだらしない身体とは思わねえな。ちんこもでかいし。 「という訳で脱げ!」 「どういう訳だよ!? 脱がすんじゃねえクソ親父!」  オレの服を脱がしにきた親父の魔の手から逃れなければ。そう思ったが、親父はバカ力の持ち主のため抵抗は無意味だった。呆気なく服を剥ぎ取られてしまう。 「クソッ! 後でぶっ飛ばしてやるからな!」  こうなった以上、もう川に入るしかない。  オレは息を止め、頭から川に飛び込んだ!   ――全身が急激に冷えて、気持ちいい。目を閉じて水の流れに身を任せると、心が落ち着く。  ……ん? 頭になんか柔らかいもんが衝突したぞ。何だこれ。 「ぷはっ!」  川底に足をつけて立ち上がった瞬間、すぐ目の前に虎市の顔が現れた。  えっと、つまりさっき衝突したのは虎市だったのか。位置的に恐らく、頭に当たった場所は……。 「すまん、虎市!」  虎市は黙ったまま、気まずそうに明後日の方向を向いた。この反応、間違いない。さっきオレの頭に当たった柔らかいもんは、虎市のちんこだったんだ! 「隙ありぃ!」 「うおおっ!?」  突如、オレの顔に大量の水が飛んできた! 数瞬遅れて、それが親父の仕業だと気付く。 「何しやがんだクソ親父……わぷっ!」 「油断大敵だよー。狼真くん」  樹おじさんもオレの顔に水を飛ばして追撃してきた!  畜生、やられっぱなしでいられるか! 倍返しにしてやる! 「うおおおおっ!!」  両手で水を掬って飛ばす! 飛ばしまくる! 親父も、樹おじさんも、あと折角だから虎市も、全員ずぶ濡れにして鬱憤を晴らす! 「ぐっ……! そっちがその気なら俺も手加減はしないぞ」  虎市も参戦し、水かけ大会が始まった。  こんなの、子供っぽくて馬鹿らしい行為だ。なのに、何故か無性に楽しい。不思議だ。  ――この時のオレは、まだ知らなかった。この川遊びが、無邪気な子供として過ごせた最後の時間だったなんて。 【続く】