戦略的撤退。  武部など取るに足らないと考えていましたが、妲己の離反は想定外でした。 「理由が無い」のだから、当たり前でしょう。  頭首が裏切るなど前代未聞です。  何故、人なんぞと共に?  私が滅ぼされることだけは避けねばならないとして、この場からの離脱だけに集中。そうして無事に逃げおおせることには成功しました。  死への恐れなどはありません。我々は脆弱な人の心身とは違う。  ですが、その時は今ではない。  最も恐れるべきは、魔妖達が統率を失い纏まった行動が取れなくなること。  そうなれば、各個討伐も容易になってしまう。  我らは百鬼夜行であるが故に、私がここで潰えるわけにはいかなかったのです。  最悪の事態だけは避けられましたが、力を使い果たした為に幽世へと戻ることすらままならない。  業を煮やしながら、私は朝日の中で傷ついた身体を引き摺っていきました。  この空気を肌で感じることで、私は自陣へ戻ってきたのだと実感できます。   あの辺りは暑かった、今の時期は特に。だから調子が出なかったのです。……等と、言い訳を考えるくらいの余裕が生まれたことを自覚できました。  やはり自分にはこのような冷たさが心地いいですね。  いくつかある簡素な隠れ家の一つですが、周辺環境はそれなりに快適にしたつもりです。  さて身を潜めましょうと家屋に近づいたところで、奇妙なものが同時に視界の端にあることに気づく。 「人ですか?」  地べたに横たわる「それ」に、私は思わず声をかけた。  さぞ寒かろう。凍えてそのまま果てていろ。  否、果ててあってほしいものです。  我々は陽の光の元では力を発揮できないのですから。 「ん……生きてたのか」 「此方の台詞です。こんなところで何を?」  残念ながら果ててはいなかったようです。  倒れていたのは二十代ほどの人間の男でした。  極力、敵意を潜めてやりとりをする。 「寒い……助けて……」 「え、ええ……」  手負いの獣ほど危険なもの。  死にかけとはいえ、ヤケを起こして最後の力でこちらまで道連れにされてはかないませんので。  発せられた引き気味な声は本音です。  わざわざ人など来ない場所を選んだのに辿り着いているし、会話も成立していない。何奴なのか。  とにかく、正体は悟られないようにしなければ。 「とりあえず、中へどうぞ。ここは私の家です」 「ありがたい……」  男の手に肩を貸しながら戸を開く。  この隠れ家に人を招くのは初めてのことでした。    一応ある囲炉裏の傍に布団を敷き、男を横たえて、火をつける。  嗚呼、凍みた空気が台無しです。  現世(うつしよ)に留まってきた故にこのくらいは耐えられますが、早く出ていってもらいたいものです。 「暖かい……でも痛い……」 「あら、まぁ、手がこんなに。塗り薬をお持ちいたしましょう」  凍傷。別におかしくもない当然のことです。  しかし、一旦暖まったところで完治してない怪我人に出ていけというのも、やはり逆鱗に触れそうなので控えたいところ。  出ていくのが遠のいたことに、私は内心で大きな溜息をつかざるを得ませんでした。    「お手をお出しになられてください」  「ありがとう……暖かいねぇ……」  「私の手が……?」  この男は感覚がおかしくなっているのでしょう。  私の手が温かいなどあり得ない。いいえ、あってはならないことですので。  「いや、お嬢さんの心がだよ。人の優しさに触れた気がする」  それなら安心でした。  手の温冷は感覚が訴えますが、心などあなたが勝手に思っていることでしかない。  それに、私は人などではない。  ああ、そうだ。  我ら魔妖は元より人を騙し、懐柔して、力を高める糧としてきた者なり。  薬を持っていたのも、万事を想定した備え故に。  彼奴もそのうち傷を癒す糧にしてやりましょう。  夜の帳が降りました。  本来なら力を取り戻す時刻も、今の私には無縁なようです。  男はなんの警戒も抱かずにすうすうと寝息を立てています。  私は、眠ることなく別の布団に身を包んでいる。  元々我らは闇の住人。本来ならこの時間帯に活動するのですが……こればかりは仕方がありません。  ただでさえ使うことも少ない隠れ家に、わざわざ2枚も用意していた私の周到さに感謝ですね。  人の男と同衾など、洒落にもなりませんから。  翌朝。  男より少し早く寝床から抜け出した私は、仕方なく朝餉を作っていました。  現世(うつしよ)で過ごしてきたのでそれなりに自信はありますが、温かい飯を作るのは気に入りませんでした。  それに、気付かれないようにする為とはいえ手負いの身で料理など、辛い。 「美味しかった!ご馳走様!」 「え、ええ。それは良かったです」  それを食した男が、何の屈託もなく感謝を示してくる。  私の苦労も……いえ、野心も知らずによくそんなことが言えたものです。  だから、そんな目で、見るな。  それから数日は、療養をする他ありませんでした。  男が心配、という体でなるべく家にいるようにして、昼間こそごろごろと横たわる。時折人里に降りて買い物をしたり薪を集めては、すぐに戻る。  そんな日々がしばらく続きました。    しかし、そんなある日、困ったことが起きました。  男のほうが回復が早く、いよいよ元気に出歩くようになったのです。  その一方、どうやら私の傷は自分で思っていたよりも深かったらしく、未だ魔妖としての力を行使できずにいます。  つまりは、拮抗していた力関係に綻びが生じてしまいました。 「今まであまり気にする余地もなかったけど、お嬢さん、顔色が悪いんじゃないか……?」  しかも、それを悟られてしまいました。  顔が白いのは元からなんですが。  それはそれとしてまずい……! 「そ、そんなことは……」 「おれの看病で気疲れして……今まで病人に世話させてたとなったら、申し訳が立たねえ!」 ……何がまずいといえば、こうやって不慣れな感情をぶつけてくることです。  数日過ごして確証を得ましたが、この男はどうにも私の調子を狂わせる。  せめて、黙って寝ているなら楽なのに。 「いや、ひょっとするとおれは病人に助けられていたのかい!?だとしたら尚更……」  嗚呼、やめろ、やめろ。  そんな気遣いはいらない……! ……それは何故?  私は現世で幾度となく他人を利用してきたのに。  そうです、そうです。  こうなったら、この際こいつを利用する他にないでしょう……! 「すみません、実は病で療養に帰ってきたのです」 「ああ、そうだったのか……ごめんな……今度はおれが薪割ったり、料理するから。お嬢さんは寝てていいよ」 「助かります……」  屈辱ですが、これが最善なことを認めざるを得ませでした。  苦汁を嘗めた甲斐あって、私の回復はそれ以降少し早まっていきました。  そして、いよいよ身体も治ったと言ってよくなったある日のこと。  男はこう尋ねてきました。 「お嬢さん、どうしてあの日俺なんかを助けてくれたんだい?」 「『助けて』と言ったのはあなたでしょう?」  なんとも、奇妙なことを聞くものです。  自分の発言すら忘れてしまうなんて、人とはやはり愚かな生き物なのでしょう。 「いや、助けてくれるなんてとても思ってなくて……思わず零してしまったんだ」 「だとしたら、私も思わず助けてしまったのでしょうね」 「おれがもしかすると、世紀の大悪党だったりするかもしれないよ?」  心にもない大嘘をついているのは目でわかる。人の社会にも溶け込んできたから。  それに、人間共から見た大悪党も、噓をついているのも私のほうだ。 「世紀の大悪党は、見ず知らずの人に用意された布団で熟睡なんてしませんよ」 「それもそうですな、ははは」  一々癇に障る人間だ。傷も癒えたのだから、最期に素性を暴いて終わりにしてやりましょう。 「あなたは、何故あのようなところに倒れていたのですか?」 「ああ、それはね……」  さて、どれ程馬鹿らしい理由なのやら。  嘲笑うのが楽しみです。 「世を儚んだというか……疲れてしまったんだ。色々裏切られてね。死にたかったけど、痛いのも嫌で。そうして闇雲に歩いていたらああなった」 「………………」  馬鹿らしい。  馬鹿らしすぎて、言葉も出ません。  だが、合点は行きました。  こいつは「死に近づいていた」。  単に死のうとしていたのもそうだし、怨嗟で満たされて我らと近しい心境になっていたのでしょう。  そうして、自然と私の隠れ家に引き寄せられた。  腑に落ちたところで、男は話を続けました。 「だから、人は嫌いだ」  ほう、人の身で人そのものが憎いときましたか。個人が憎いといった恨みは聞き飽きましたが……ここまで来ると珍しいものです。 「……でも、お嬢さんは、人じゃないんだろう?」 「えーと、何を仰るのでしょうか」  急に「空気が冷え込む」のを感じた。  何故、何時気付いたのでしょう。  今すぐ殺すか、いや、それだけならもう簡単です。  この奇人の考えは明かしてやらないと気が済みません。 「だって、こんなに優しくしてくれる方なんて今まで出逢ったことがないから。だったらもう、それは人間じゃないんでしょうよ」 「そんな事は……」  我ら魔妖は幽世にて怨嗟より生まれ落ちる者。  だが、現世が怨嗟だけで満たされていないことくらいは知っています。だから、夜の闇に堕としてやろうとしているのです。  それなのにこの男ときたら、穏やかな眼をしながらも昏い記憶しか持ち合わせていないらしい。  こんな人は初めて見ました。 …………憐れ。  そういう感情はこのようなものだと、この時理解しました。   「ああごめん、別に人じゃなかったからどうするとかじゃないんだ……。ただ、身分の違うおれをいつまで置いてくれるのかってぼちぼち気になってね……もう出て行ったほうがいいか?」 「別に私は構いませんよ」  ……あれ? 「構いませんが……逆にいつまで居るつもりですか?」  考えもなく口から自然と紡がれた言葉は明らかに自分の思慮の範疇外で、意識してないものでした。  不思議です。いえ、おかしいのです。なりません。こんな事、心にもないはずなのに。   「あ……いえ……その……そんな心持ちだったそうなので……。いつまで留まるおつもりなのかが気掛かりでした」 「ああ……それはね……。その……『分からない』んだ」 「分からない?」 「一度は死のうと思って彷徨っていたけど……本当に死にかけて、お前さんの優しさに触れて迷いが生まれてしまった。もう少し生きたいけど……まだ死にたい気持ちもある。おれはもう自分で何がしたいのかすら分からない」  男はもはや自分で生きたいかどうかすら決められなくなっているらしい。  沈黙がしばらく続く。   このままでは埒が明かない。  私が何かしてやる他にないのかもしれない。  ……私がとるべき行動は。