時雨  雨の日は好きだった。  正確には、雨の日は屋外部活動が軒並み中止か、屋内での筋力トレーニングに変更になるおかげで比較的静かに過ごせるから好きだった。  日頃から私が根城にしている科学準備室は体育館からも校庭からも遠く、加えて特別教室棟の端の端に位置していて廊下をランニングする集団も通りがからず、おかげで騒音雑音とはほぼ無縁だった。  さああ、と一定の音階を刻み続ける雨音に混じって、別棟の方から音楽系の部活の演奏が微かに聞こえてくる。  雨音を聞くのも好きだったけれど、音楽を聞くのも好きだった。  楽器というものは不思議だ。ものとものを打ち合わせたり擦り合わせたりしているというのに不快な騒音にはならなくて、むしろ聞いていて心地よく感じられるのが不思議だった。そして人の声も、大人数が無秩序に喋っている場はうるさくてたまらないというのに、それが歌になると途端に耳心地のよいものへと変化する。人の声も一種の楽器といえるのだろう。  タイトルは知らないけれど聞き覚えのあるメロディに合わせて、気づけば無意識のうちに小さくハミングでリズムをとっていた。  薄暗い科学準備室の窓際で、曇天の薄明かりを頼りに備品の鉱石図鑑のページをめくる。  スマホの予報アプリによれば日が暮れる頃には晴れ間が見えてくるそうで、そうなったら今日のところは部活を切り上げて帰宅することにしよう。  まあ、今日は部活らしいことは何もしていないのだけれど。 「雨が上がったら帰ろう」 「そうだな」  傍らのメイにそう声をかけて、窓の外の空を見上げた。  なるほど、予報の通り遠くの雲の切れ間から、うっすらと青空が覗いていた。  もうあと一時間。雨が上がるのが早ければと、恨めしげに唇を尖らせた。 ◆  私がそれに気付いたのは二年時の夏前だっただろうか。  授業中ずっと降り続いた雨が放課後になってにわかに止んで、静かに過ごせる時間を惜しみつつも、それならば昆虫採集に出掛けようかと窓を開けて外を眺めていた時のことだった。  雨上がりのぬるいような冷たいような、どっちつかずの風に混じってどこからか、綺麗な歌声が響いてきたのだ。  最初は音楽系の部活なのかとも思ったけれど、よくよく耳を澄ませてみると、どうも様子が違っていた。  音の伝わり方から察するに、屋内で歌っているわけではないようだった。歌に合わせた伴奏は弦楽器……おそらくアコースティックギターが一本。そんな活動場所でそんな編成の部活は、私が知る限りではこの学校には存在しなかった。  まったく興味を惹かれなかったと言えば嘘になる。思わず窓から身を乗り出して耳を頼りに周囲を見渡したけれど、声はすれども姿は見えず。その歌声の主の姿を見つけることはできなかった。  ならばと思い立ち、科学準備室を横切って廊下の窓からも同じようなことをしてみたけれど、成果は得られず、イヤホンをしてスマホで動画を見ていたメイに怪訝な視線を向けられただけだった。  それからも、忘れかけた頃にその歌声は私の耳に響いてきた。  何度か耳にしているうちに、絶対ではないがその人は晴れの日……特に雨上がりを好んで歌っているという法則に気がついた。考えてみれば当然で、外で歌っているのだから雨が降っていては歌うどころではないからだ。  ではなぜ雨上がりを狙って歌うのか。それだけは最後までわからなかった。  歌っている場所も正確ではないものの、だいたいの位置は特定できた。廊下側からはほとんど聞こえず、窓に近付けば近付くほどよく聞こえた。それに気付いてからは窓際が私の定位置になった。  それからというもの、雨が降るたびに私は天気予報アプリを確認し、放課後の降水確率を気にかけるようになった。  いつしか私は、青空を待っていた。 ◆ 「ねえ、知ってる?屋上の歌幽霊の噂」  最近流行りの学校の七不思議のひとつというものらしい。クラスに必ず何人かはいる、噂好きの子たちが話しているのを偶然耳にした。  曰く、特別教室棟の屋上にそれはそれは綺麗な声をした歌う幽霊が出るという話で、歌っている姿を一目見ようとこれまで何人もの生徒が歌声が響くたびに屋上に駆けつけるも、いつも屋上へと足を踏み入れると同時に忽然と姿を消してしまうのだという。ついた通り名が屋上の歌幽霊、外苑西中のセイレーン。  普段の私ならば、何をそんな非科学的な話をと一笑に付すはずなのだけれど、何をとち狂ったのかその時はそうであってもいいなと思った。  なにせあんなに綺麗な歌声なのだ。人智の及ばない超常の存在であってもおかしくはない。……少し言い過ぎかもしれないけれど。  とにかく、その幽霊の噂はまたたく間に学校中に広まり、しばらく生徒の間ではその話で持ちきりになって、積極的にその輪に入ろうとしない私ですら少し聞き耳を立てれば聞こえてくるくらいだった。  常々感じているのだけれど、人というものはどうしてこうも他人(?)の事情を暴きたがるのだろう。好奇心や探究心を否定するわけではないけれど、こうも連日騒がれては当の幽霊も迷惑極まりないはずだ。  そうしてそのせいなのかどうかは不明だが、件の幽霊(仮)の歌声は徐々に聞こえてくる頻度を落としていき、私が三年生に進級してからは完全になりを潜めてしまった。  最後に聞いたのはいつのことだったか。三学期末試験の前後あたりだったと記憶している。  屋上の歌幽霊は何か現世での目的を果たしてこの世に未練なしと成仏したのか、騒がしさに嫌気が差してどこへなりと消えてしまったのか。想像の翼を膨らませようとしたものの、その正体はあっけなく明かされることとなる。  なんのことはない。名前は失念したが噂の歌幽霊本人が高校の音楽科受験を前に、あがり症の克服のために予行演習と称して屋上で弾き語りを披露したというのだ。  ということは、ぼんやりと眺めていた卒業証書の授与式。まるで擦りガラスの向こう側の出来事のように、輪郭の判然としないセレモニーのその中の誰かが幽霊だったのか。特に交流もなかった上級生たちだったのでさしたる感慨もなかったが、ただ、もうあの歌が聞けないのだと思うと後になって多少残念に思った。  幽霊の正体見たりはなんとやら。そうして外苑西中の七不思議のうちのひとつは、生まれてから一年も経たないうちに番外へと追いやられる結末となった。  ちなみに七不思議の残りの六つがどういったものだったのかは、私の在学中にはついぞ知ることはかなわなかった。 ◆  その日は朝から小雨がぱらつく生憎の天気で、予報を確認してみても一日中晴れのマークがひとつとして見当たらなかった。  練習を強行しようと思えばできなくもない程度の雨だったけれど、秋も深まり気温も下がっていく中、無理をして風邪でもひいてはいけないと、我らが千砂都部長はグループ会話で部活動の休みという英断を高らかに宣言した。  それを受けての部員たちの反応は、休んでいる暇はないと個人で部活動に励む者、たまには気晴らしも必要と羽根を伸ばす者、そんなことより成績が危ういと勉学に勤しむ者と様々だった。  私はといえばどちらかといえば休息寄りの人間で、動くことは特段嫌いではないが特別得意というわけでもないので、動かなくてもいい時はできる限り動かずに省エネに努める主義だった。なのでこうして普段よりも数段静かになった部室で、絶え間なく降り続く雨音と隣の席から聞こえてくる微かな寝息をBGMにして読書を楽しんでいるのは、私を知る人からすれば想像するに容易いだろう。  薄暗い旧校舎の一角で、少しばかり頼りない蛍光灯の明かりの元で私物の天体図鑑のページをめくる。  ふと、入り口の方から古びた階段の軋む音が聞こえた気がした。多少の改修はされているだろうが築年数も相当なものだろうし、建物全体が静かになれば普段は気にならないような音も矢鱈と聞こえてきてしまう。 「うぃっすー」  入り口の引き戸を開くと同時にスクールアイドル部特有の挨拶で現れたのは、かのん先輩。明かりは点いていたものの、人の気配がほとんどしていなかったのでおずおずといった感じの控えめな声の張りが、かのん先輩らしいといえばらしい。 「うぃっす」 「……んあ」  倣ってVサインを指で作って返す。が、その動きが引き金となって、私にもたれかかって眠っていた隣の人を起こしてしまったようだった。 「……おはようございますっす〜……」 「うわ、ごめんねきな子ちゃん!起こしちゃったかな」  目をこすりながら身を起こすきな子ちゃんの姿に手のひらをぱちんと合わせて、大袈裟にも見える謝罪の姿勢をとるかのん先輩。 「大丈夫。むしろちょうどよかった」 「かのん先輩を待ってたんす〜……」  噛み潰すポーズすら感じられない大あくびにつられて、私も鼻の奥がむずむずとした。きな子ちゃんの返答にほっと胸をなで下ろし、かのん先輩は表情を柔らかくした。 「そっか、よかった。みんなは帰っちゃった?」  肩に担いでいた大荷物をパイプ椅子の上によいしょ、と下ろしながらかのん先輩は長机の席につく。コの字型に拵えられたソファに腰掛けていた私達とは向かい合う形になった。 「夏美ちゃんは恋先輩が曲作りに旧音楽室に行くって言うからついて行った。そのあと勉強を見てもらうみたい」 「メイちゃんと可可先輩はスクールアイドルショップに行くって言ってたっす」 「ちぃちゃんとすみれちゃんは新校舎のダンススタジオ借りるって言ってたから、今日は私達三人だけかな」  ケースのファスナーを開き、ギターを取り出す。スマホの画面を数回操作したのち、ストラップを肩にかけてから慣れた手付きで弦を上から順に何度か爪弾いていった。時折ペグを捻っては鳴らしを繰り返し、かのん先輩の手によって楽器が最高の状態に戻っていく。 「きな子、かのん先輩のおかげで憂鬱だった雨の日がちょっと楽しみになったんすよ。あっ!レッスンが嫌ってわけじゃないっすよ!」 「私はもともと嫌いじゃなかった」  あることがきっかけで嫌いじゃない、から楽しみ、に変わったという経緯はあるけれど。 「それは歌い甲斐があるなあ」  六弦までの調律を終え、かのん先輩は少しだけはにかむように笑う。左手の指の腹が弦を撫で、きゅ、という音が木製のボディにこだました。 「それじゃ、聴いてください」  とんとんとん、とリズミカルにピックでボディを叩き、演奏が開始される。気づけば、私の心臓の鼓動も少しばかり早まっていた。 「ほんの ちょっぴり──」  雨の日はやれることがないからと、なんとなく、いつの間にか始まったかのん先輩の独唱会。各メンバーも他に用事がなくてやる気があればやる程度の緩い集いではあったけれど、覚えている限りではきな子ちゃんはいつも参加していた。それだけ好きなのだろう。  膝の上で開いていた図鑑をぱたりと閉じる。読書をしている時間が惜しいと思えるくらい、心惹かれる歌声だった。目を閉じれば、今はもう懐かしい学び舎の屋上で、抜けるような青空を背に歌うかのん先輩の情景が瞼の裏に映し出される。  実際のそれを目にしたことはなかったけれど、生き生きと、楽しそうに歌う彼女の仕草のひとつひとつすらありありと浮かんだ。  なぜ雨上がりに歌っていたのか。今更本人に聞くのもあれなので私の推測でしかないけれど、単純に歌えることが嬉しかっただけなのではないか。きっと晴れ空だけが彼女が自由に飛べる瞬間だった。  人一倍歌を誰かに届けたがるくせに、人一倍誰かの前に立つのが苦手な彼女が、誰の目も気にせずに思いきり歌える場所が人気のない特別教室棟の屋上だっただけで。灰色の雲に切れ目ができるのを今か今かと待ちながら、きっと彼女は空を睨んでいた。  人というものはどうしてこうも他人のことを知りたがるのだろう。知り過ぎれば後で痛いとわかっているのに、知りたいという欲求は止まらない。  ちら、と隣を見遣ると、瞬きすら忘れてきらきらとした眼差しをかのん先輩に向け続けるきな子ちゃんがいた。  私は一度、なんの感慨もなく彼女を送り出したというのに、二度目も同じようにできる自信がまるでなかった。無感情でいられないくらい、彼女のことを知りすぎていた。メイさえ傍にいればそれでいいと思っていた頃にはいつの間にかもう戻れなくなっていた。  一曲めを歌い終えたかのん先輩にきな子ちゃんが惜しみない拍手を贈り、それに対してありがとうと述べながらふと、何かに気付いたように窓の外に視線を遣るのを見て、つられて私もそちらを向いた。  雨は止んでいたけれどまだ雲は厚く、またいつ降り出してもおかしくない。秋の天気は変わりやすいのだ。 「明日は晴れるかなぁ」  誰にともなく、かのん先輩が呟いた。  晴れればこの幸せな時間が終わってしまう。けれど晴れなければ私達は皆ここで立ち止まったままだ。  これまで何人もの心を晴らしてきたというのに、彼女の心はまだ曇ったまま。 「晴れるといいっすね」  きな子ちゃんはそう答えたけれど、私は問いに応じられなかった。まだ明確な答えを持っていないから。  雨が上がらなければ歌えない。  夜が明けなければ羽撃けない。  幽霊は今も彷徨っていて、彼女は今も青空を待っている。 了